登入午前中の研究所は、いつもより張り詰めた空気に包まれていた。
白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の青い数字が規則正しく点滅している。
消毒液とわずかな薬品の匂いが空気に溶け、研究員たちの白衣が行き交うたびに、乾いた足音がタイル床に響いた。
東条グループからの正式な研究の打ち合わせ。相手は社長自らだという情報に、周囲の研究員たちも緊張を隠せない。
誰もが声をひそめ、キーボードを叩く音さえが普段より慎重に聞こえた。
「宮坂主任、東条社長がお見えです」
案内を受け、澪は会議室へ向かった。
長い廊下を進むと、両側の壁に並ぶポスターやデータグラフが、午前の光を受けて淡く輝いている。
会議室のドアを開けたら、東条悠臣がすでに席についていた。部屋全体が静かで、空調の低い音だけが背景に溶け込む。
上質なスーツを完璧に着こなし、静かな余裕を漂わせている。病院で初めて会ったときと同じ、落ち着いた眼差しだった。
黒い生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が澪をまっすぐ捉える。
テーブルの上には整然と並べられた資料と、開かれたノートだけが置かれていた。
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」挨拶を交わしたあと、すぐに本題へ入る。
紙の擦れる音が小さく響き、二人の声が会議室の静けさに溶けていく。
培養データの解釈。次相試験に向けたリスク評価。競合他社の動向を踏まえた開発戦略。専門用語を交えながらも、会話は滞りなく進んだ。
澪が指摘をすれば、悠臣は即座に意図を汲み取る。悠臣が疑問を投げかければ、澪は根拠を明確に示して返す。
モニターに映し出されたグラフが二人の視線を交互に捉え、指先が資料の端を軽く押さえる仕草が交錯する。
空気は緊張しながらも、どこか澄んでいた。
「……なるほど」
打ち合わせが一段落したとき、悠臣は静かに資料を閉じた。表紙が閉まる小さな音が、部屋に残る。
「宮坂主任の視点は鋭い。現場を熟知している人間でなければ出せない意見です」
「東条さんの質問も的確でした。経営と研究、双方のバランスを考えた視点だと感じます」お互いを高く評価する言葉が、自然と交わされる。そこには上下関係も、必要以上の遠慮もなかった。
ただ、専門家同士としての敬意だけがあった。
「また機会をいただければと思います」
「はい。こちらこそ」会議室を出るとき、澪は軽く会釈した。悠臣も静かに顎を引いて応じた。
ドアが閉まる音が廊下に響き、二人の足音がタイル床に乾いたリズムを刻みながら遠ざかっていく。
午前の光が、廊下の白い壁を優しく照らしていた。
***同じ時刻。研究所の向かいにあるビルで商談を終えた智也は、エントランスを出たところで足を止めた。
ガラス張りの通路が陽光を反射し、足元の石畳にまぶしい光を落としている。
通りを挟んだ向かい側では、研究所のガラスファサードが青空を映し、入口付近を人が行き交う姿がはっきりと見えた。
風が通りを吹き抜け、街路樹の葉がさらさらと音を立てている。
ガラス張りの通路を、東条悠臣が歩いている。その隣には、白衣を着た女性がいた。横顔しか見えなかった。
白衣が陽光を受けて淡く輝き、二人の影が石畳に長く伸びている。悠臣のスーツの黒が、女性の白と対照的に際立っていた。
(――東条社長が研究員と話しているのか)
そう思っただけで、智也はそれ以上気に留めなかった。
研究所の人間など、自分には関係のない存在だ。それに、大株主が視察に来ることは珍しくない。研究員の顔など、覚える必要もないだろう。
通りを流れる車のエンジン音と、遠くの信号が変わる電子音が、日常の背景として聞こえてくる。それ以上、深くは考えなかった。
智也は肩をすくめ、そのままタクシーを拾った。
黒い車両が縁石に寄り、ドアが開く音が乾いたアスファルトに響く。車内に滑り込むと、窓の外で研究所の建物が遠ざかり、午前の光がガラスに反射して消えていった。
***午後。智也が会社に戻ると、すぐに幹部会議が始まった。新薬プロジェクトの入札に向けた戦略会議だった。
広い会議室は、重いダークウッドのテーブルを中心に、黒いレザーの椅子が整然と並んでいる。
天井の間接照明が落ち着いた光を落とし、壁一面のガラス窓からは午後の都市が一望できた。
「御子柴社長、一点よろしいでしょうか」
若手の部下が進言する。
資料を手にした指先がわずかに震え、声が会議室の静けさに溶けていく。
テーブルの上には分厚い資料が積み上げられ、モニターにはグラフが映し出されている。
「東条グループが研究所と、接触を強めているようです。今回の入札では、研究側との連携も重要になるかと思うので、主任研究員との関係構築も今後重要になるかと思うのですが――」
智也は資料から目を上げず、短く答えた。
紙の端を指で押さえ、視線は数字の列に釘付けのままだった。
「研究自体に価値はない」
会議室内が、わずかにざわついた。椅子が軋む音や、誰かが息をのむ気配が広がる。
智也の声は低く、しかしはっきりと部屋に響いた。
「営業が契約を取ってきて初めて、研究は価値になる。研究者なんて、誰が担当でも大差ない」
断言する口調に、迷いがなかった。
部下は、なおも食い下がろうとした。資料をめくる音が小さく響き、視線が智也の横顔を探る。
「それでも、主任研究員のお名前だけでも把握しておいた方が——」
「必要ない」智也はバッサリと切り捨てた。
資料を閉じる音が乾いて響き、会議室に沈黙が落ちる。
誰も、それ以上は言えなかった。
智也は再び資料に視線を戻す。
自分が今、切り捨てた「主任研究員」が誰なのか。
そして、その人物が――今夜も同じ家で眠る妻だということを、智也はまだ知らなかった。
会議室の空気が重く沈み、時計の秒針だけが規則正しく時を刻み続けていた。
新薬の入札まで、残り一ヶ月。研究所の空気は、日を追うごとに張り詰めていた。 白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい青白い光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の数字が規則正しく点滅している。 データ検証、最終調整、報告書の精査。どれもが気の抜けない作業ばかりだった。 キーボードを叩く音が各所から響き、機械の低い駆動音が背景に流れ続けている。澪はその中心で、淡々と業務をこなしている。 事務職を中断して白衣の袖を通し、モニターに映し出された数値を確認する。一つひとつのデータに目を通し、わずかな違和感も見逃さない。 感情を挟む余地など、今の自分にはなかった。指先がマウスを正確に動かし、過去のログと現在の数値を頭の中で照合していく。 同時に、もう一つの準備も着実に進めている。 弁護士とのやり取りと証拠の整理。それと、財産分与に向けた資料作成――帰宅後、智也がいない時間を見計らって、少しずつ形にしていく。 リビングのテーブルランプの黄色い光だけが円を描く静かな夜に、ファイルを開いて紙を一枚ずつ並べる。 誰にも気づかれないように、静かに確実に仕事と離婚準備。その両方を並行して進められる自分が、少しだけ遠く感じられた。 以前の自分なら、夫のことだけで頭がいっぱいになっていたはずなのに、今は違う。 自分の未来を、自分の手で決めようとしている。*** 東条悠臣との連絡は、以前より増えていた。 研究データの確認。次のフェーズに向けた意見交換。研究環境についての情報共有――どれも業務上の範囲を出ない。 メールの画面に表示される文字は簡潔で、余計な装飾がない。それでも悠臣は澪の判断を尊重し、余計な私情を挟まなかった。「必要な支援があれば、遠慮なく言ってください。ただし、あなたの判断を最優先します」 その言葉が、澪にとっては何よりありがたかった。 仕事上の最大の理解者。そう位置づけてしまう自分に、違和感はなかった。恋愛でも、依存でもない。 ただ、研究者として真っ直ぐに向き合ってくれる存在。それだけで十分だった。*** 一方、智也は初めて、はっきりとした焦りを自覚していた。 家に帰っても、澪の笑顔はない。相変わらず会話は最小限。結婚指輪は、もう二度とつけられていない。 どんなに優しく接しても、澪との距離は縮まらなかった
仕事から帰宅して、智也は自宅の書斎でパソコンの画面を睨んでいた。 部屋はほとんど灯りを落とし、デスクランプの光だけが円を描いて机と壁を照らしている。 検索窓に文字を打ち込む――宮坂澪 研究所。 キーボードを叩く音が静かな部屋に小さく響き、画面に次々と検索結果が並ぶ。表示された検索結果を、上から順に確認していく。 所属する研究機関。一般向けに公開されている研究分野の紹介。研究所が発表しているニュース――どれも、表面的な情報ばかりだった。 画面をスクロールする指先が微かに震え、ランプの光がキーボードのキーに影を落としている。「……名前が出てこないな」 智也は眉を寄せた。額に薄い皺が寄り、椅子の背もたれに体を預け直す。 さらに検索条件を変えてみる。けれど、結果は大きく変わらなかった。 妻の名前を検索しているはずなのに、出てくるのは澪が所属している研究所の情報ばかり。(――いったい、どういうことだ?) これまで智也は、澪の仕事に興味を持ったことなどなかった。 研究所で働いている、ただそれだけ――自分の会社のように、経営に関わる仕事をしているわけでもない。ましてや、研究者として何か大きな成果を上げているなどとは考えもしなかった。 だから白衣を着ることもない澪を見て、勝手に事務職のような仕事だと思い込んでいた。 実際は、どんな研究をしているのか。どんな立場にいるのか。どれほどの責任を背負っているのか、聞いたことすらない。 なのに今、東条悠臣が澪の働く研究所へ支援を申し出ている。その事実だけが、智也の中に重く残っていた。「俺は……」 智也は、画面を見つめたまま呟く。声が静かな部屋に溶け、画面の光が彼の瞳に映る。 「澪の何を知っていたんだ」 結婚して三年。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲んできた。 それなのに妻が毎日どんな場所で、何をしているのか。自分は何も知らなかった。 いや、知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。その事実に気づいた瞬間、胸の奥に妙な重さが広がった。 後悔――なのだろうか。けれど、まだそれを認めることはできない。自分が悪かったと素直に認めるほど、智也の中の何かが崩れ始めているわけではなかった。 ただ、これまで当たり前だと思っていた妻への認識が、少しずつ崩れている。そのことが、落ち着かなかった。 椅子が軋む小
研究所の会議室に、東条悠臣の姿があった。広い部屋は午前の陽光がブラインドの隙間から、細い光の筋を落としている。 神代を含む幹部陣が揃う中、悠臣は静かに資料を広げる。 黒いスーツの生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が資料の文字を冷静に追っている。「東条グループとして、正式に支援を申し出ます」 告げられた言葉に場の空気が、わずかに引き締まった。椅子が軋む小さな音や、誰かが息をのむ気配が広がる。「今回の抗がん剤プロジェクトは、社会的意義が大変大きい。設備の増強と、研究環境の安定化に協力したいと考えています」 具体的な内容は、最新分析装置の導入支援と、共同研究枠の拡充。どちらも研究所全体の研究基盤を強化するものであり、宮坂澪個人に利益を与えるものではない。 提示された金額と規模も、研究所にとって大きな後押しになる提案だった。 神代は資料を確認すると、深く頷いた。眼鏡の位置を直し、指先でページをめくる仕草が慎重だった。「ありがたい申し出だ。前向きに検討させてもらう」「よろしくお願いします」 悠臣は静かに頭を下げた。その動作は控えめでありながら、確かな意志を感じさせるものだった。 会議は、その後いくつかの確認事項を残して終了した。*** 会議室を出たところで、澪は悠臣の姿を見つけた。白衣の袖を整え、澪は足を止める。「東条社長」 呼びかけると、悠臣が振り返る。切れ長の目が穏やかに澪を捉えた。「宮坂主任」 澪は背筋を伸ばしてから、深く頭を下げた。廊下の蛍光灯が彼女の横顔を青白く照らし、白衣の襟元がわずかに揺れる。「本当に、ありがとうございます」「礼を言われる筋合いのものではありません」「それでも……」 澪は一度言葉を切った。そして、慎重に言葉を選ぶ。指先が白衣の裾を軽く握り、視線を逸らさずに続ける。「特別扱いは困ります。私個人への便宜として受け取られるのは、本意ではありません」 やんわりとした拒否する。けれど、その意志は明確だった。 自分だけが特別に扱われることで、周囲から余計な誤解を受けることは避けたい。 何より研究者としての評価を、誰かの後ろ盾によって得たものだと思われたくなかった。 そんな澪の考えを、悠臣はすぐに理解したようだった。「もちろんです」 悠臣は穏やかに答えた。声は低く、しかしはっきりと廊下に響く。
研究所の総務部に一通の匿名メールが届いたのは、朝のことだった。 件名には「内部告発」とある。そこに記されていたのは、宮坂澪に関する複数の告発だった。 ――実験データの改ざんに関与しているのではないか。 ――特定の企業と不適切な関係を持っている。 ――主任という立場を利用し、私的な利益を得ている可能性がある。 いずれも、研究者としての信用を根底から揺るがしかねない内容だった。具体的な証拠は添付されていない。 それでも、新薬開発の入札を間近に控えたこの時期では、単なる悪戯として片づけるわけにはいかなかった。 総務から連絡を受けた神代は、重い表情で澪を呼び出した。「この内容を確認してほしい」 差し出されたタブレットの画面を見て、澪は静かに息を吐いた。驚きよりも先に、疲労感が押し寄せる。 またか――。 そんな言葉が、胸の奥に浮かんだ。「身に覚えはありません」「分かっている」 神代は即座に答えた。「だが、研究所として正式に調査する必要がある。入札を控えている以上、疑惑を残すわけにはいかない」「構いません」 澪は画面から目を離した。「必要なものは、すべて提出します」「助かる」 それからの数日間――澪は通常業務をこなしながら、過去の実験ログ、試薬の管理記録、データの更新履歴、外部とのやり取りに至るまで、求められた資料を一つずつ提出していった。 曖昧な記憶に頼ることはしない。 記録を確認して日時を照合し、数字を一つずつ追っていく。研究者として、当たり前のことを当たり前に積み重ねる。 その姿勢は、普段と何も変わらなかった。 そして、調査の中で重要な意味を持ったのが、先日の培養データ異常に関する記録だった。 急激に数値が変動した際、澪は原因を特定し、使用していた試薬のロットまで遡って確認している。 その判断から対応完了までの過程は、実験ログに時刻とともに残されていた。 データを書き換えたのなら、これほど一貫した記録が残るはずがない。むしろ、そのログは澪が異常をいち早く発見し、プロジェクトへの影響を最小限に抑えたことを示していた。 さらに、他の実験データや試薬管理記録との照合でも、不正を示す痕跡は見つからなかった。 調査開始から数日。神代は研究室に集まった研究員たちの前で、はっきりと告げた。「調査の結果、宮坂主任によるデータ
智也の態度が、明らかに変わっていた。 以前ならほとんど顔を合わせることのなかった朝食の席で、智也は澪の様子を伺うように視線を向け、口を開く。「今日は早く帰れる。何か食べたいものがあるか?」「疲れてないか? 無理するなよ」 顔を合わせるたびに、決して口にしなかったような言葉を澪にかける。 それだけじゃなく、食事の時間を合わせようとする。帰宅時間を早める。澪が疲れているように見えれば、積極的に声をかける。 どれも、少し前の智也なら考えもしなかったことだった。 妻を気に掛ける智也に対し、澪の反応は驚くほど薄かった。「大丈夫」「もう食べたから」「ありがとう」 短い言葉を返しては、それ以上の会話を続けようとはしない。 当然、笑顔もない。智也を気遣う様子もない。必要なことだけを告げると、自分の部屋へさっさと戻っていく。 ドアが閉まる音がリビングに乾いて響き、彼女の足音が廊下に消えていく。 その背中を、智也は何度も目で追った。 ソファに深く座り、閉じられたドアを見つめる。「……澪」 呼び止めようとして、やめる。 何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。ただ、以前とは何かが違う。それだけは、はっきりと分かる。 部屋の空気が重く沈み、時計の秒針が異常なほど大きく聞こえる。ソファに座ったまま、智也は閉じられたドアを見つめた。(まだ怒っているのか……) 五千万円の送金について問いただされた夜から、澪との間にある距離が、明らかに感じられるようになった。 あのとき見た、澪の静かな目。責めるわけでもなく、泣くわけでもなく。ただ、自分を見つめていた。 あの視線が、なぜか頭から離れない。 テーブルの上には何も残っておらず、ランプの黄色い光だけが円を描いて何もない空間を照らし続けている。智也は小さく息を吐いた。 吐いた息が、ひんやりとした空気に溶けていく。(――きっと俺が変わればいい) そうすれば、いつか澪も元に戻る。以前のように笑って自分を頼って、妻として自分の隣にいてくれる。 そう信じていた。 その考えが、どれほど自分勝手なものなのか。智也は、まだ気づいていなかった。*** 一方――琴葉は、智也からの連絡が減っていることに気づいていた。 以前なら、夜遅くでも近況を聞いてくるメッセージが届いた。会う約束も、智也のほうから持ちか
弁護士事務所の個室は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。 厚いカーペットが足音を吸い込み、壁際の間接照明が淡い琥珀色の光を落としている。 テーブルの上には、澪が少しずつ集めてきた資料が並んでいる。 通帳のコピーと振込記録。過去のメッセージの写し。そして――三年前の日付が印字された、一枚の銀行振込受付票。 白い紙が照明を受けて鈍く光り、角がわずかに折れた跡が、長い時間を経てきたことを物語っていた。 担当弁護士は眼鏡の奥でそれを見つめ、銀行振込受付表を取り上げる。指先で丁寧に縁を押さえ、文字をゆっくりと追いながら、静かに口を開く。「この五千万円の送金についてです」 送り主は御子柴智也。受取人は白石琴葉――金額は五千万円。 紙の上に印字された数字が、部屋の静けさの中で異様なほど大きく感じられた。「離婚調停や財産分与の場では、この送金理由も重要になります。贈与なのか、貸付なのか。それとも、別の関係性を示すものなのか」「……はい」 澪は静かに頷いた。椅子の背もたれに軽く体を預け、両手を膝の上で重ねる。「本人に確認します」 弁護士は資料を閉じると、澪をまっすぐ見た。眼鏡の奥の視線は冷静なのに、不思議と優しさを含んでいた。「感情的に詰め寄る必要はありません。ただ、事実を確認するだけで十分です」「分かりました」 澪は短く答えた。 もう、感情に任せて何かをぶつけるつもりはない。知りたいのは、事実だけだった。 部屋の空気がわずかに動き、ブラインドが夜の光を細く切り取っている。*** 弁護士事務所を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。 高層ビルの谷間を吹き抜ける風は、昼間の熱をすっかり奪い、アスファルトの表面を冷たく湿らせている。 澪は不意に足を止め、小さく息を吐く。吐いた息が白い煙となって、夜気の中にすぐに溶けていった。 これまでなら、知ることが怖かった。事実を知れば傷つく。知れば、今まで信じてきたものが壊れてしまう。そう思っていた。 けれど――もう違う。どれだけ残酷な真実でも、知らなければ前には進めない。「大丈夫。私はもう逃げない……」 小さく呟き、澪は歩き出した。ヒールの音が冷たい石畳に規則正しく響き、街灯の光が彼女の横顔を優しく照らす。 知るべきことは、すべて知るその先にある未来を自分で選ぶために。*** その夜。智也